髪を切るということ 04

脈々とした髪

長嶋りかこ / グラフィックデザイナー

もう何年経つのかあまり覚えてないのだけど、今から少なくとも十年くらいは、髪の毛を自分で切っている。自分で切り始めてからの髪型はずっとショートなのだけど、いつかの大掃除の時に見つけた中学生の私の写真の髪型は、今のショートと全く一緒だった。あの頃はたしか校則的にもショート一択で、しかも私が住む村には美容室などはなく床屋、かつその床屋もひとつしかなく、おじさんたちに紛れて私は、そんなに生えていない顔の産毛を白い生クリームのような泡とともにカミソリで剃られ、つるっとした顔をもってしてショートカットが完成されていた。いつもあんまり気に入っていなかった。

市街地にある高校に進学し、一時間かけて通った。はじめて彼氏ができ、好かれたい一心で彼が好きそうなロングヘアーにまで伸ばした。バンドマンだった彼は少し破天荒で、隣にいる私は背伸びをし、市街地の駅近くにあった美容室ではじめて髪の色を変えたりした。大学進学のために親元を離れてからは、貧乏学生の私はアルバイトで得たお金でできることは思い切りするようになり、その頃はもう白いスポンジが色水を吸うように、知りうる限りの髪型をした。黒髪ロングヘアー、巻き髪、メッシュ、エクステンション、金髪ロングヘアー、金髪ショート、アフロ、ドレッド、ベリーショート。髪型を変えた日、彫塑室で絵を描く私に、クラスの誰も気づかなかった時、気づいて欲しいような、気づいて欲しくないような、かくれんぼをしているかのような私には、気恥ずかしさと、衝動的な貪欲さが同居する。ここにいるようでいないような、自分。なんの文脈もなく、何の背景もない、私の髪型。やったことがないし知らないから、やってみたいし知りたいっていう、それだけの欲求と、自分が何者なのかわからない不安が、髪型に現れていた。誰かから聞く何らかの失敗談は耳に入っても素通りし、自分の身にしっかり失敗が起きないと学びを得て次に進めなかったように、これは違う、と身を以て知ることが、村の床屋一択だった自分には必要だったのだと思う。

自分で切るようになったのは、たしか仕事が多忙を極めて美容室に行けなくなったからだった。ハサミで髪を切ることは彫刻刀で木を削りながら形を抽出していくような面白さがあって、その行為自体を好きだと思った。忙しくて行けない、っていうマイナスの事象であったのに、自分を手探りでかたちづくっていくかのような、プラスの行為へと変わった。間違ってもいいから、自分の手で確かめることの方が自分には重要だった。襟足がめちゃくちゃだよ、とか、やめた方がいいよ、とか何人にも言われたけど、全然気にならない。むしろ笑って、だよねやばいよねとか言いながら、どこかそんな自分のことを誇りに思っていた。自分で最後の責任を持てない不自由さから解放され、自分の責任で失敗していることが、自由に思えた。大学生の時とは違って、追い求めるそのかたちには、自分の体を知りながら自分の手でできることをしている安心感があった。いつしか背景が見えてきて、文脈ができてくる。頭蓋骨との対話は、自分を受け入れることにつながっていった。物理的に自分の腕が届く範囲であるからという理由と、長く伸びる程にうねりを帯びて出てくる嫌なハネを制御するという理由で、自分でできる髪型はショート一択だった。中学生の時とおんなじ、あのショートだった。とても気に入っていた。

髪を切るための三面鏡も作った。後頭部の見通しがよいその鏡のことも好きだった。杉板合板と鏡を貼り付け、ヒンジをつけ、自由にパタパタと折りたためる。そこにクリップライトもつけて、強い光に照らされた後頭部は一段と見やすくなった。まるで盆栽かのように、といっても根が適当な性格なのでずさんな盆栽だけども、生き物を育てていくかのような愛着が生まれた。なんだか気分がいい時なんかは調子に乗ってザクザク切ってしまい、たいがい失敗していたのだけど、それも別に良い。どうせ髪は伸びるものだし、伸びたらなんとなくかたちが落ち着くことも、失敗から知っていたから。

撮影の仕事で出会ったヘアメイクのCさんとは、写真家のEさんのおすすめで知り合った。何度か仕事でご一緒した彼は、被写体自身のありようを最大限に受け止めそれを生かす人だった。だからなのか、彼の仕事道具は異常に少なく、そして異常に早くヘアメイクが終わる。え、これでいいんだ、けど、うん、たしかにこれでいいよね、そんなふうに思えたヘアメイクを見て、私は心地よいと感じた。Cさんが不定期にサロンもやっているというので、一度髪を切ってもらいたくなりサロンに伺った事があったけど、鏡の前の椅子に私が座ると、彼は私の髪を触ってぐるりと眺め、「いや、このままがいい」と言った。目尻にシワをいっぱいにした笑顔で「この感じは俺にはできない、これはすごくいい」と言って、私のザクザクした手つきを残しながら、少しだけ彼が気になった部分を整えて仕上げてくれた。このサロンでCさんからは、私が自分で切り続ける理由と、まるごとの誇りを頂き、それからはもうそこに伺っていない。きっとそれを望んでくれていると思いつつ。

相変わらず全く飽きもこずに、ずっとぱっつん前髪のショートに切り続けたのだけど、髪に関して基本的に適当な私は、多忙を極めると自分の髪が伸びきっていく。ある日、そうだ切る頻度を減らすために試しに髪をボブにしてみようかと思いつき、ワカメちゃんのようなショートにして、放置してみた。襟足だけをたまに切り、サイドを伸ばしていったら、いつしかだいたいのイメージ通りのボブになった。チャキチャキとした印象のショートとは違って、こんな私でも少しだけ華やかに見えるような気がするボブを、私は気に入ったけれど、しかし髪を伸ばすと自分の髪質がうねりをおびることをうっかり忘れていたことに気づく。そうだった、これが嫌だったんだった。はねる位置が決まっているので、その長さに差し掛かったら切る、それを繰り返すのだけど、いつしかそれすらも出来なくなった。私に赤ちゃんが産まれた。

赤ちゃんをケアし続けていたら、自分をケアする時間なんてすっかりなくなった。トイレすら自分のタイミングでできないような時期が育児にはあって、うっかり何度か膀胱炎になったほどなので、当然自分の髪の毛を切る時間を作ることすら無くなった。伸びっぱなしの髪はしばらくの間ニット帽に全部詰め込んで隠すような時期が続く。ぱっつん前髪も全部ニット帽に入れ込んでいたので、おでこが出てスッキリはするけれど、いざ帽子を取ればボサボサなので、さすがにもう無理!と苛立ちとともに十分くらいで切って、また伸び放題になったら帽子に詰め込んでしまっておき、それも終始つかなくなったらまた切って、を繰り返していた。

なんかもう日々の家事と育児と仕事のタスクに追われてほとほと疲れた私は、年始に美容室に駆け込んだ。その美容室のTさんとは、これまた仕事で知り合っていた。彼がこれから作りたいというシャンプーのパッケージデザインを妊娠期に依頼してくれ、でかくなっていくお腹とともにデザインを進めて出産後に完成、プレス発表会は合間に授乳しながらこなしたことを思い出す。そんなことも懐かしく感じるほどに月日は流れた頃、私はTさんのもとに駆け込んだ。Cさんとも通づるところがあるのだけど、同じく私は彼の考え方が好きだった。ただCさんと違うのは、彼は髪だけでなく、身体、生活、環境を、髪を通してぐるりと見ている人だったこと。彼がハサミを入れるとき、彼は相手の毛先だけではなく、根元を見ている。顔色を見ている。姿勢を見ている。生き方を見ている。どんな生活で、どんな循環がひとを整えるのか。そしてどんな暮らしが、自然環境を整えることにつながるのか。そんなことが気になって仕方がない彼だから、シャンプーを作ったのだった。

彼は切った髪を掴んで、「けっこう大変でしたねきっと」と言った。疲労困憊が髪に出ていたようで、私もその髪を触ってびっくりした。雨に濡れた野良犬が太陽で乾いたような、ごわごわでパサパサの髪がタワシのように束になっていた。あの頃の自分自身の抜け殻がそこにいるような手触りで、ぎょっとした。Tさんはすぐに、「でももう大丈夫です、みてください、次の子たちが出てきていますから」と根元を見せてくれた。たしかにつんつんと元気そうな毛が飛び出ている。だけどそれよりも、“だいじょうぶ”って言う、そのことが大事であることを彼は知っている。おまじないのような、禊ぎのような彼の所作は、年の初めになんだかぴったりだった。そして人にケアされることの心地よさったらなく、こうして誰かが自分のためだけに時間を使ってくれることが、今の自分には足りなすぎているんだと気づく。カットをしてもらう、というよりも禊いでもらうような時間。身体を受け入れ、背景を受け入れ、文脈からはみ出たところをTさんはカットする。

その後も何度か連続してTさんのお世話になっているのだけれど、今はまた自分で切りたくなってきている。子供との暮らしがもう少しで五年目を迎え、年々ほんの少しづつだけど、息子がいつか私から自立する日に向かって様々な場面における”乳離れ”のようなものが増えていっていることと比例するように、仕事ではほんの少しづつ新しい領域に足を突っ込もうとしている、その流れとこの気持ちは似ている。

長嶋りかこNAGASHIMA Rikako

グラフィックデザイナー

1980年生まれ。2003年武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科卒。デザイン事務所「village®️」を設立し、アイデンティティデザイン、サイン計画、ブックデザイン、空間構成など、グラフィックデザインを基軸としながら活動。主な仕事に、ポーラ美術館の VI 計画、札幌国際芸術祭 2014- 都市と自然 - や 2021 年ベネチアビエンナーレ建築展の日本館のデザイン全般、坂本龍一「Playing the pinano 12122020」や蓮沼執太 &Uzhaan「2tone」のジャケットデザイン、再生ポリエステル生地と印刷の損紙の汚れを使用したテキスタイルデザイン「SCRAP_CMYK」(Kinnasand)など。
http://rikako-nagashima.com/