髪を切るということ 06
頭の傷
佃 弘樹 / アーティスト
三歳の時、自宅の庭で父親が僕のことを抱っこしたまま氷で滑って転倒しました。
あの時の記憶は今でもしっかりとあります。父親に抱っこされたまま景色が逆さになってゆっくりと地面が近づいてくる感じです。
走馬灯というものは、自分に死の危険が迫った時にいろんな記憶がフラッシュバックすると聞きますが、どうやらそれはいろんな記憶の中から、今のこの危険な状況を脱出するにはどうすればいいかと、脳が答えを探して瞬時にいろんな記憶を探っているから見るのだそうです。
当然、三歳の僕の薄っぺらい走馬灯からは危険から脱出する術は何も見つけられず、コンクリートの地面と僕の脳天は激突してしまいました。
「いかん、頭が割れとる!」そう叫ぶ父親は僕の記憶の中では、何故か笑っているようでした。
そこから家に入って大騒動でした。とりあえず血がダラダラ流れてくるので、母親と祖母が代わる代わるタオルで拭うのですが、すぐに真っ赤になるので、タオルと言わず家中の布で拭っていました。しかし埒が明かないので、最終的にクリーニングの袋の中に座らされ、救急車を待ちました。
田舎ですが、すぐに救急車は到着しました。救急車の車内から見る外の景色は赤く明滅し、僕はいま救急車に乗っているんだ!とすごくワクワクしたのを覚えています。
病院に到着すると、先生が、痛くないからね、すぐ終わるからね、何の食べ物が好き?チョコレートは好き?じゃあ終わったらチョコレート食べようか?など、ずーっと話しかけてきてくれましたが、めちゃめちゃ痛くて泣き叫びました。思えば頭を打ってからそこで初めて泣いたんじゃないかと思います。しかし先生は僕にずーっと話しかけながらも、すごいスピードで頭を縫ってくれました。結果、すぐに縫合は終わり、僕の頭には八針の傷が残りました。
それから僕の髪型はずーっと坊ちゃん刈りでした。傷が目立つからと、母親は床屋さんにいつも「長めで」と告げていました。やがて一人で床屋に行くようになっても「長めで」と毎回注文していました。当時の田舎の子供の髪型の「長め」は坊ちゃん刈りしか存在せず、この髪型が一生続くのだと思っていました。しかし、髪型なんかどうだっていい子供の時は、兄のスポーツ刈りや友人の丸坊主を見て、乾かすのが楽そうでいいな〜と感じたこともありました。
それから思春期になり、異性を気にするようになると、髪型や服装に気を使うようになりました。高校生にもなると頭の傷なんか気にしなくなったので、短めにしてみたり、もみあげだけ長くしてみたり、マッシュルームにしてみたり、内面の人間形成がまだ途中段階で、自己が定まらないのと同じく、髪型も全く定まりませんでした。その後、上京し美術大学に通うようになっても、パーマをかけてみたり、伸ばせるところまで伸ばしてみたりと、まだまだ定まりませんでした。いつだったか忘れましたが、伸ばした髪を切って三つ編みにして、顎髭にボンドでくっつけてた時期もありました。そのくらい自由でした。そう、僕はそのころ自由だったのです。
幼少期は親の言いなりでしたが、思春期で自我を持ち始め、ある程度自分でものを考えるようになりだすと、髪型もどんどん自由になっていきました。しかし定まることはありませんでした。
やがて、無計画に大学を卒業し、アルバイトでイベントのフライヤーを配ってた時に一軒の美容室に入りました。そこの感じが良かったので、今度ここで切ってもらいたいな〜と思って、後日、客として訪ねました。それがジュンさんとの出会いです。もう20年以上前のことです。
ジュンさんはいつも適当で、こっちの注文を聞いているのかいないのか、今だからこそ言えるんですが、実は切ってもらった後に、あれ?こんな髪型にしたかったっけ?て思うことも何度かありました。そしてジュンさんはすごくおしゃべりで、髪を切っている間、会話がヒートアップしてきたら、完全に髪を切る手を止めてジェスチャーを交えて喋ったりして、そのせいか結構時間がかかることもありました。
しかし、僕はそんなジュンさんのことが好きだったので、新しい店舗で店長になった時も、独立して新しい美容室を作った時も、変わらずジュンさんのもとに通っていました。
僕はというと、ちょうどジュンさんに初めて髪を切ってもらった頃からフリーランスでグラフィックデザインの仕事を始めたのですが、毎回髪を切りに行くたびに、あの雑誌に載っただの、今度こういう展示をやるんだなどと報告していました。ジュンさんはその頃から小さい展示でも毎回観にきてくれて、僕がアーティストに方向転換した後も、毎回展示を観にきてくれています。
あれから20年、最近ではジュンさんのところに息子を連れていき一緒に切ってもらっています。
そしていつの頃からか、髪を切ってもらうときに注文をすることがなくなりました。いつも席に座ると、「いつもの感じ?」と聞かれるので「はい」と答えるだけです。
ジュンさんは相変わらずおしゃべりで、今でもたびたび手を止めて喋るのですが、最近は切るスピードが異常に速くて、すごいおしゃべりしてるのに15分くらいで切り終わってしまいます。そしてすごく上手なのです。毎回同じ髪型にビシッと決めてもらっています。
僕の惑いかジュンさんの惑いがなくなったのか、僕の自己かジュンさんの自己が確立したのか、おそらくそれら全てがあるからだと思いますが、この歳になって髪を切ることがすごく普通で、気負いも何もなく、自然な行為になったと思います。
今回、この原稿のご依頼をいただいた時に、ジュンさんのことを改めて考えてみると、ふと僕の頭を縫合してくれた先生とジュンさんの手際が似ているなと、そんな風なことを感じました。
余談ですが、大人になってから父親に、僕の頭が割れたとき笑ってなかった?と尋ねたら「そんなことあるかい!いまだにあの時の夢を見るんやぞ!」と言われました。僕も父親になったのですごくわかります。
佃 弘樹TSUKUDA Hiroki
アーティスト
1978年香川県生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、グラフィックデザイナーとして活動するが、2005年にNANZUKAと出会ったのがきっかけでアーティストに転向。2017年に発表した大作がニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されるなど、国際的な評価も高い。