髪を切るということ 14
鋏と鏡を磨いて
小林直樹 / ヘアスタイリスト
髪を切ることを仕事にしているのに、自分自身の髪はしばらく放置。伸びた髪も、黒髪に少しずつ混じってきた白髪も受け入れ、いつも後回し。
伸びた髪を後ろで結び、帽子をかぶって「まだ大丈夫か」と鏡の前でつぶやく。この業界に20年いるとは思えない恥ずかしい話ですが、それが僕の日常です。
「紺屋の白袴」「医者の不養生」「髪結いの乱れ髪」
自分のことに手が回らない様子を表すことわざはいくつもありますが、まさにこの状態。
美容師というと、華やかな世界でスポットライトを浴びる姿を思い浮かべる人も多いかもしれません。でも僕はどちらかといえば光を当てる側。静かに髪を切り、穏やかに暮らしています。
時間を超える体験
久しぶりに髪を切ったのは、ちょうど今回のお話をいただく少し前のこと。もし切る前だったらお断りしていたかもしれません。そう思うとこれもご縁だなと。気がついた時には結べるほど伸びていて、「せっかくならヘアドネーションをしよう」と決めていました。きっと何も知らない人が見たら無職でフラフラしている状態に見えたでしょう。
約2年ぶりのカットをお願いしたのは、尊敬する先輩の美容室。曇空の下1時間、高速道路を車で走りながら向かっている最中にふと思いました。「髪を切るために1時間かけて美容室に行ったことはなかったな」と。同時に、自分が営む小さな美容室に、遠くから来てくださるお客さまの顔が浮かび、改めてありがたいことだなぁと感じました。
美容室の役割は人によってさまざま。髪が伸びたら誰もが行くように、暮らしに根ざした場所でありながら、日常から少し離れて心を休めるリトリートとしての機能を持った空間でもあります。今回、先輩の美容室を選んだのは、まさにその後者の理由。髪を切るという目的以上に、「その人に会いに行く」「その空間に身を置く」ことに意味があるのだと思います。
倉庫をリノベーションした美容室は、無機質な雰囲気の中に木の温もりが調和した心地よい空間。先輩も相変わらず元気そうで安心しました。久しぶりの再会でも時間が飛び越えたように自然に会話が始まったのは、仕事の日も休みの日も関係なく、濃厚な日々を一緒に過ごしたからなのかもしれません。
席に案内されて伝えたのは「今の自分を整えたい」ということ。大まかな長さの確認以外はお任せでお願いしました。
昔話に花を咲かせている間もヘアドネーションの準備が進められ、柳のように揺れる長髪と別れの時です。
「シャキン、シャキン」
鋏の音が耳元で響き、八束に分けられた髪があっという間に解放されていきました。伸ばすのは大変ですが切るのは本当にあっという間です。
鏡の中でどんどん軽くなっていき、白いクロスに包まれた自分を見て感じる照れくささは懐かしく、彫刻のように不要な部分をどんどん削ぎ落としていくたびに、胸の奥にも風が通っていくような感覚がありました。
ドライヤーで乾かす時間も切る前とはまったくの別物。新しい髪型は気持ちまで軽くなるものですね。実際に会えたからこそ話せた内容もあり、この機会に色々お話できて背中を押してもらえました。シャンプーやマッサージも気持ち良く、コーヒーもいただき深呼吸。心身を養うというのは案外ささやかなことの積み重ねなのでしょう。危うく心までぱさぱさに渇いていくところでした。自分への水やり完了です。
髪の毛の寄付、美しい循環
髪と心を整え、ヘアドネーションまでできたこの時間は、まさに日常の中の非日常。自分の髪が少しでも役立つことができるのは嬉しく思います。10年以上前になりますが、京都の御髪神社で「ヘアデザインを通じてたくさんの人を幸せにできますように」と祈願してきました。ヘアデザインと聞くと、クリエイティブな活動を想像されますが、ヘアドネーションの活動も広義のヘアデザインだと捉えています。
ちなみに、ひとつのウィッグをつくるに必要な数は30〜50人分。必ずしもウィッグを必要としない社会になることが理想ですが、その一歩は当事者意識を持つこと、話し合うこと。自分にできることをこつこつと。
どこか懐かしい気持ちになって、独立する前に勤めていた美容室でも流れていたJack Johnsonを久しぶりに聴きたくなり、「In Between Dreams」をBGMにゆっくりとアクセルを踏む。余韻に浸る車内には、スタイリング剤のシトラスの香りが柔らかく広がり、黄昏の夕陽に照らされながら、過去の自分にそっと別れを告げました。
切ることはセラピー
さて、美容師の立場から見たらどうでしょうか。
髪を整えることは、実は切る側の心まで整えてくれる行為でもあります。
「いい感じです」と笑う声に出会うたびに思うんです。
この仕事は、セラピーそのものだと。
美容室は年齢も立場も様々な人が来てくれます。髪がなくてもウィッグを持参してカットする人も。
髪を切るということは、目の前の人に寄り添い、進んだ時計の針を戻すように本来の自分に戻すことでもあり、新しい自分を始めるきっかけでもあります。その瞬間に立ち会えることは不思議と自分自身を肯定されたように温かい気持ちになります。
今回、カットをお願いした先輩も、他の尊敬する美容師のみなさんも、数えきれないほどのお客さまに寄り添い、それぞれの色に輝いていました。鏡越しに映る姿は今でも夢に出てくるほど、深く記憶に残っています。
今の僕は、お客さまの目にあの人たちのように映っているのだろうか。たくさんの人を幸せにできなくても、ささやかながら、必要としてくださる方の暮らしを彩るお手伝いができたら嬉しいなと。
青く澄んだ空が広がる1日のはじまりに、鋏と鏡を磨きながら静かに考えています。
小林直樹KOBAYASHI Naoki
ヘアスタイリスト
1986年生まれ。茨城県常陸大宮市出身。水戸美容専門学校通信課程卒。県内の美容室2店舗を経て2017年noiloniを開業。サロンワークを中心に、訪問美容、髪と暮らしにまつわる雑貨の販売。社会における美容師の役割について思案している。
http://www.noiloni.com/