髪を切るということ 02
自分とその周りの環境を捉え直す時間
鈴木 愛 / 料理家・冬草主宰
今はショートカットで落ち着いていますが、それ以前は長らくロングヘアでした。ショートにした理由やきっかけのようなものは特別なくて、あるときショートにしたいなと自然と思い立ちました。ただ切ってもらうならこの機会に私を知らない人にお願いしたい。そう決めていました。
私の意図を汲んだ髪型や流行りなど、そういったことは望まないなか、自分はどうしたいのかな?と、当時考えていた時期ではあったと思うんです。だからこそ私を知らない人が私をどう捉えてくれるだろう? 新しい気持ちでそれを感じてみたかったのかもしれません。すると今の職場でもある穂高養生園(長野県)のスタッフが表参道アトリエを紹介してくれたんです。仕事をしているそのスタッフの横顔がとても自然で美しくて、あっ私も同じ美容師さんに自分の髪を切ってもらいたいと直感的に思いました。
以来、東京に行った際にその美容師である潤さんに切ってもらっています。心身は日々揺らいでいるものですが、潤さんに髪を切ってもらうと、その揺らぎが整っていくような感覚があります。まるで庭師さんが庭の手入れをするように、いるもの・いらないものを選別してもらっているかのよう。手入れが終わると埃をとってもらったような清々しさと背筋が伸びる感じがあって、心身ともに代謝が上がったように、巡りが良くなります。
以前、東洋医学の本を読んでいたときに髪は「血余」と言われていることを知りました。血余には、血の余りが髪を育てるという意味があるようです。頭皮、心、体の血行が良いと潤いのある髪が育ち、頭皮や毛根への血液が不足すると髪が育たずパサパサに。確かにそうだなあと。まさに髪は心身の一部分であると同時に全体のことでもあるなと思います。だからでしょうか、髪を切ってもらう時間は、今日まで自分がどういう風に過ごしてきたのか。何を食べ、何に触れてきたのか。心身を振り返りながら、自分とその周りの環境を捉え直す時間にもなっています。外側を整えてもらいながら、実は内側で何か絡まった糸をほぐしてもらうような行為かもしれませんね。とにかく自分が健やかでいるための大切な時間です。
向かうべき方向へと背中を押されて
私は食にまつわる活動をしていますが、潤さんに髪を切ってもらう行為と私が料理を通じて目指していることは、実は近しい部分があるのではないかと思っています。
潤さんに髪を切ってもらうと「髪型」が前に出てこないんです。「髪を切った」という気配さえあまり感じません。どちらかというと自分さえ見過ごしてきた違和感が取り除かれて、曖昧だった自分の輪郭がはっきりとしていく。“私がより私自身になった”その感じだけが残るんです。
私は料理でそれができたらどんなにいいだろうと思います。例えば料理の材料にトマトを使うとします。一括りにトマトと言っても、産地や収穫する時期、栽培方法によって大きさや固さは違いますし、味も大きく変わりますよね。そうやってひとつとして同じものがないトマトと向き合うと、料理の前提条件は、実は一定にはできないものだなって。だから私は目の前のトマトを観察しながら、トマトそのものの個性を引き出すことを考えたい。その邪魔をしたり、壊したりするような手の入れ方をしないように心がけたいんです。作り手の意志が消えた料理をすることが理想です。
実際にそれができているかというと、まだまだ至ってはいません。そういう私も含めて、これから向かうべき方向へと一歩、ぽんっと背中を押してもらう。それが私にとっての髪を切るということなのかもしれません。
鈴木 愛SUZUKI Ai
料理家・冬草主宰
1980年生まれ・東京都出身。都内自然食レストランや和食店で調理を学び、2010年よりホリスティックリトリート穂高養生園に勤務。自然に根ざした野菜の調理法を学び、季節をベースとした食と体の結びつきを深く意識する。日々の暮らしを心地よく過ごしてもらいたいという思いを込めて「冬草」の名で活動を始める。omotesando atelier奥の部屋にて「ととのえるスープの日」を不定期開催。
取材・構成:水島七恵