髪を切るということ 08
明日の自分を紡ぐ時間
一井りょう / 写真家
私の髪は、天然パーマヘアでくりくりとした、細く柔らかい髪質をしています。不器用さから、髪を自分で切った経験はなく、子どもの頃は母に・・・。大人になってからはご縁によって出会えた、感性豊かな憧れの方々に長くお願いしてきました。これまで通ったヘアサロンは、数えるほどです。
私は、空気がすっと流れるような落ち着いた場所で、整えられた個性を感じるインテリア空間のサロンに惹かれます。時間もゆったり流れているようにも感じ、体が透き通っていくような気持ちになります。
都心で活動をしていると、無意識に日々の喧騒に巻き込まれる時間が増えてしまいます。私は、広島県の田舎で生まれて、穏やかな瀬戸内の海が目の前にある環境で育ったので、自然の中で息をするような心身の休息をいつのまにか求めているのかもしれません。
表参道アトリエに初めて訪れた日は、自然光が綺麗に差し込んでいて、真っ白の洋服で凛とした佇まいの人影。ふわっと良い香りが漂う白い空間に、優しい色の木の家具とアート本が並んでいました。
私は、仕事柄、カメラのファインダーを覗いて見える枠を空間に重ねて、その方の感性を探してしまう癖があります。そこには、インテリアを選び、空間を完成させた人の気配と想いが存在しているので、カメラがなくても記憶のシャッターを切りながら、その方の個性を感じることができたりするんです。表参道アトリエには、どこを切り撮っても奥行きのある美しい余白があって、時間が静かに流れていました。理想的な空間で過ごしながら「ここが表参道なの?」と驚いたのを覚えています。
潤さんは、まず私の髪を見て「このままでも十分いいですね。少しだけ整えてみましょうか」と言い、髪を整えながら、人の魅力とは何か。美しい髪を作るためには体の内側から健康になること。そのために必要な水や食べ物のことなどを話してくれました。そんな彼の表情を見ながら、「少し変わっているけど、真っ直ぐで真摯な人だなぁ・・・」と心で呟き、この出会いを嬉しくも思いました。切り終えた髪は、私らしくありながら、新たな風を纏っていました。
視る・視られる。鏡に写る姿と意思
アトリエの扉を開けると、潤さんに案内されて、いつもの同じ場所の椅子に座ります。一呼吸して見上げると、鏡には、周りのものたちを排除した「自分」と「彼」の姿だけが写ります。
私は自分自身を、そして彼自身を視る・・・。
同時に、彼から視られる・・・。
サロンで覗く鏡は、直接向き合わず、鏡に写る姿を透して「視る・視られる」を繰り返します。お互いの体は近くにあるのに、言葉や意思は鏡に投げかけられる。そうすると、程よい距離感と、心地よく揺らぐ人と人との境界線が生まれて、丁寧な歩みで関係を紡ぐことができます。
次第に、不思議と自分の素顔が現れて、私自身の骨格が現れてきます。日々変化する自分の姿を鏡に写し、理想の女性像に一歩近づけるように想いを込める時間かもしれません。あとは、全てを任せ、体を委ねるだけです。私が敬愛するフランスの女性写真家サラ・ムーンが撮った、数々の人物写真のような唯一無二の存在になれるように・・・。
私は、家族や師匠、尊敬する方々、友人。そして、ライフワークとして撮影を続けるフランス移動サーカスカンパニー〈RASPOSO〉の家族の存在と深い感性から、強い影響を受けてきました。家族の中でも、特に祖母は美しく厳格な人だったので、多くのことを教わりました。「身だしなみはとても大切。白のブラウスには、パリッとアイロンをかけて粋に着なさい。髪の毛にブラシを当てなさい。靴を磨きなさい。顔や容姿は、生き方や志次第で、良くも悪くもなってしまうんだからね。出会いを大切にしなさい」。子どもの頃はよくわからなかった祖母の言葉を、大人になって理解できるようになりました。
アトリエで髪が整えられ、言葉を交わす時間の中で、切り手の方の感性を受けると、自分自身が、また少し成長してゆけるようで、そうやって積みかさねてゆく想いが私の美となり、個性となり、外見をも変えてゆくようにも感じています。私にとって、「髪を切るということ」は、自分が惹かれる方と鏡を通して、年月を重ねながら、人の美しさとは何かを考える豊かな時間です。明日の自分を想像しながら・・・。
一井りょうICHII Ryo
写真家
1970年広島生まれ。デザイン学校卒業後、独学で写真を撮り始める。写真家・野波浩氏の撮影助手として4年間勤め、1998年 ZOTPHOTOとして独立。2006年 初作品集『THE VEINS』出版後、ロンドン・パリ滞在中、フランスの移動サーカス団〈RASPOSO〉に出会う。その家族の存在に雷を打たれたような衝撃を受け、記録撮影を依頼。2008年単身渡仏、約3ヶ月間のヨーロッパ巡業に同行する。2010年『RASPOSO』出版後、記録撮影は11回目を迎え、2020年『MARIE MOLLIENS RASPOSO』出版。東京とフランスを拠点に、雑誌や広告の撮影をしながら、ライフワークとなった〈RASPOSO〉との旅を続けている。