
髪を切るということ 12
一人ひとりとの関係を、長く続ける
大川英伸 / ヘアスタイリスト
一本のハサミ
中学生の頃から親との折り合いが悪く、高校卒業後、10万円ほどを握って家を飛び出し、上京しました。音楽の仕事を探したんですが、お金もなく、まずは住み込みで働くことに。当時は住み込みというとパチンコ屋か、新聞配達か、美容室の3つから選ぶしかなく、パチンコは嫌い、新聞配達は重労働がつらそうだということで、残った美容室を選びました。
初めて働いたのは荻窪にある美容室です。そこは美容学校の入学金を立て替えてくれて一年半で返済するシステムでした。住まいとして与えられたのは、四畳一間の部屋。トイレは共同でお風呂はなく、月々の手取りは2万8000円。そんな最低限の生活環境の中、美容室の仕事と並行して、バンド活動をしていました。でも一年半のうちに「自分は音楽には向いていない」と気づいてしまったんです。もともと人前に出るのが得意ではなかったこともあり、羞恥心と覚悟のなさから「もう無理かもしれない」と、ミュージシャンの夢はフェイドアウトしていきました。
入学金の返済を終えたタイミングで荻窪の美容室を辞め、原宿を歩いていたあるとき。美容室の入り口にあった「スタッフ募集」の張り紙が目に入りました。ふらっと中に入ると偶然知り合いが働いていて、店長に紹介してくれた。そこで「明日から働けます」と伝え、今度はその美容室で働くことになったんです。
原宿の美容室では、大阪出身の一つ上の先輩と毎日過ごしていました。彼は、まだ20歳の新米アシスタントだった僕に、お酒を渡しながら「ワンカンやろうよ」と声をかけ、「大川くん、切りたいと思う髪型を描いてみて」と言うんです。そしてデッサンをして見せると、「じゃあ切ってみよう。描けたなら、きっと切れるから」と続けました。当時はカットの手順さえわからなかったんですが、想像した髪型を造形していく過程が、ものすごく楽しかったんです。さらに、その先輩は僕にハサミを一本くれました。初めての自分のハサミを手にした感動は、中学三年生のときにエレキギターを買って、アンプに挿し、初めて音を出したときと同じものでした。その瞬間、「これならやっていけるかもしれない」と思いました。

逃げた先で
先輩が大阪に帰ったことをきっかけに、いくつかの美容室を転々としました。自分が思い描く美容ができず、当時働いていたサロンにも満足がいかない。沸々とした思いを抱えた20代を過ごしていました。そんなあるとき、日本を飛び出してニューヨークで仕事を探そうと飛行機に乗りました。それは、2001年9月10日発・11日着の便でした。
あと15分でJFK国際空港に到着するというところで、9.11の爆破テロが起きました。当然飛行機は着陸できず、アラスカへ。降り立つと銃を持った兵隊さんがバーっと並び、乗客は人種別に分けられました。その後、米軍基地内のホテルに10日間滞在することに。ロビーでは泣いている人もいれば、「これから戦争が始まるから帰国できない」と叫ぶ人もいて、否応なく生や死に向き合う時間になりました。
考えているうちに、自分がニューヨークに行こうとした理由――、やりたいヘアスタイルがどうだとか、「何系」が嫌だとか、そういったものがすべてダサく思えてきました。マインドがガラリと変わり、今まで否定していたものが全部愛おしく見えてきたんです。自分のところまで切りに来てくれる人だったら、どんなヘアスタイルも喜んで切ろう。そう思うようになりました。
思えばニューヨーク行きも美容室を転々としたことも、全部逃げだったんです。もう逃げないと誓って、30歳で自分の店を開きました。

最後まで、長く、関係が続くように
サロンでは、日々さまざまなドラマがあります。
あるとき、引きこもりになってしまったお客さまがいました。普段はきちんと髪を整えている方だったのですが、約一年ぶりにお店に来られたときには、髪はボーボーに荒れていました。久しぶりに髭を剃り、髪もさっぱりして帰られたその帰り道に、昔の師匠とばったり会ったそうなんです。そこで「○○くん、元気そうだね」と声をかけられた彼は、「あのとき髪を切らなかったら、師匠にも気づかれなかったと思う。僕という存在も消えていたような気がする」と言っていました。
またあるときは、長年通ってくださっていたおばあさまが亡くなり、髪を梳かしに行かせてもらったことがありました。訃報を聞いたときに、僕からご家族にお願いをしたんです。少し重い話かもしれませんが、あのとき、美容師として良かったと思いました。誰しもが最期の瞬間まで関われるわけではない。そういう機会をいただけて本当に幸せだと思いました。
僕はいつも、切る側・切られる側の関係を、できるだけ長く続けたいなと思っています。それにはやはりカットの技術が必要です。パーマもカラーもありますが、美容師の本分はやっぱりカットにあると思います。どんな経験を積まれた人の髪にも、怯まずにハサミを入れられるだけの引き出しを持っておくこと。そして僕自身もひとりの人間としてきちんと生活をすること。髪を切るという行為には、そういうことが大切なんだと思います。
自分を保ち続けることで、いま髪を切らせていただいているお客さまにも、この先10年、20年と長くお店に来てもらえる気がします。関係性を続けていけることが、僕にとっていちばん嬉しいことです。

大川英伸OHKAWA Hidenobu
ヘアスタイリスト
1974年群馬県太田市生まれ。日本美容専門学校夜間部卒業。2006年、代官山に HAIR SALON Prahaをオープン。2019年、MoonLight recordをオープン。地域のお客さまだけでなく、モデル、ミュージシャン、デザイナーなどのクリエイターからの信頼も厚い。作品集に『OUT OF STEP』(2022)、『OUT OF STEP-vol2』(2025)。
http://salon-praha.com/
構成:熊谷麻那